Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

朝長孝介というセッター



 僕が彼と初めて会ったのは2000年のこと。9年も昔のことだが、今と全く変わらない屈託のない笑顔を覚えている。彼は大学2年生だったが筑波大の確固たる正セッターというわけではなかった。当時筑波には、彼と一学年下に日下、3年生になったときには二学年下に壬生というセッターがいた。篠田、柴田、北島という豊富なスパイカー陣に比べて、筑波はセッターだけが穴だといわれている時代だった。確かな記憶ではないが、大学時代、朝長選手が最初から最後まであげきった大会というのはなかったのではないだろうか。しかし、いつも筑波が優勝したコートには彼がいたような記憶がある。
 当時、朝長孝介というセッターは、今言われているようなクイックがよく使えるセッターという評からは似ても似つかないようなサイドを中心に組み立てるセッターだった。強いて言えば安定感が取り柄という、あまり特徴を持たないセッターであった彼がVリーグにいく。今思うと失礼な話だが、信じられなかった。実際、豊田合成に進路が決まったのも4年生の年明けだったと記憶している。
 豊田合成でもずっと2番手セッターに甘んじていた彼が、急遽全日本入りを決めたのは、2005年のワールドリーグが終わった後のことだった。けが人、辞退が続き、降ってわいたような話だった。そんな彼はチーム内の怪我人事情もあいまって、アジア選手権にたった一人のセッターで挑むことになる。この大会が彼のターニングポイントであった。12年ぶりのアジア選手権優勝は、瞬く間に朝長孝介を日本のトップセッターに仕立て上げた。その後、彼は全日本に欠かすことのできないセッターになっていった。しかし常に第二セッターとしてスタートして、最後の試合ではいつのまにか上げているというほとんどの大会でレギュラーを奪い取るということを繰り返していった。次の大会ではまた第二セッターからスタートするのだが。
 決してブロックも強くない、サーブも強くない、球離れが速いわけでもない、足が速いわけでもない。そんな朝長孝介が今ここまでのセッターになったのは、よく言われていることだがその人柄と勉強熱心さ*1によるところが大きい。性格の悪いセッターのトスはやはり気持ちよく打ってもらえない。彼のトスが打ちやすいというのはその練習量によるところだけではない。そしてふてくされない。いつどんなときでも使える。そんな安心感が彼にはある。ベンチにいても気持ちが切れることの全くない、珍しい選手なのだ。しかもベンチにいる彼は的確にそのチームのその日のトレンドを見抜き、実行することができる。そんな選手が第二セッターからスタートして、いつの間にか正セッターになってしまうのは当然の結果だったのかもしれない。
 こんなセッターは二度と現れない。正直言って彼がトップレベルで上げられるようになったのはラッキーであったし、彼は環境によって育てられた選手だった。そんな彼のバレーボールが見られるのはあと1試合だけ。目に焼き付けたいと思う。

*1:数多い長崎県出身のセッターにはなぜかこの特徴が当てはまる