Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

The end justifies the means



バレーを見ているとき、いつも気をつけておきたいなと思うのが、いろんな戦術とか用語とか概念があくまでもセオリーに立脚していることが多いということだ。
ここでいうセオリーというのは、英語の意味よりは日本語での使い方に近い。定石といった方が近いだろうか。


回りくどい例からいうと、バックオーダー、フロントオーダーという概念は、同じような役割をする選手が対角に位置しているという前提に基づいているし、ポジションの呼び名だってあくまで戦術の変遷の中でああいう呼び方をしているに過ぎない。
全員がセッターをして、だれもが真ん中でブロックして、パスをするチームにバックオーダーもくそもないし、今のような語彙でポジションの名前をつけるのは困難を極める。


Vリーグでは外国人選手が入るポジションを制限したほうがいいのではないかといった提言を目にすることがある。
外国人オポジットは禁止すべきだとか、ミドルのみにすべきとかね。これが良いか悪いかは置いといて、仰っていることは理解できるのだが、これを実行するのはまず不可能である。
果たしてバレーボールのルールでは、リベロ以外は戦術上の「ポジション」を規定していない。
なので、ポジションによって制限するというのはあくまで現代バレーのセオリー上の話をしているに過ぎなくなる。たとえばセッターの対角に置くのは禁止とかいう不文法を用いても、対角に置かないでオポジットの役割をさせれば良いだけだし、そもそもセッターの定義ってなに?という話になる。


コート上で目にするいろんな物事がルールによって規定されていることなのか、セオリーに根ざしていることなのかを見分ける必要がある。必ずしもミドルにリベロが入る必要はないし、そもそもベンチにリベロを入れなくてもルール違反ではない。
長いバレーボールの歴史の中で構築されてきたセオリーは、洗練されているし、限りなく最適解に近いとは思うが、所詮はセオリーである。
結局なにがいいたいのかといえば、得点をとるためのプレーと、セオリー通りのプレーは限りなく近いのだけど、厳密にいうと違うということだ。ここでセオリー通りというと、これもまた語弊があるのだけれど、ここまで読んでいただければ、伝えたいことはわかっていただけると思う。


手段が目的化することがあってはならないということだ。
サーブレシーブをきれいに返すことが目的になっていないだろうか。きれいなコンビネーションをすることが目的になっていないだろうか。どこかのチームを真似ることが目的になっていないだろうか。そもそもセオリーを外れて変則的なことをするのもそれ自体が目的化してしまっていないだろうか。
きれいなだけのバレーボールでは点を獲れない。うまいだけではセットをとれない。教科書どおりのバレーだけでは試合に勝てない。日本は教科書が間違ってるんじゃないか、という話は置いといて。
バレーボールそのものに立脚した戦術やプレーをするチームをみると感心する。


たとえば相手コートに空いているスペースがあるなら、一本目でパスでそこを狙うことを試みてもいいわけである。三回さわって返さないといけないルールはないのだから。
ミドルでツーセッターするチームがあってもいいはずだし(高校あたりなら大分使えると思うのだが)、半分くらいツーアタックするセッターがいてもいいと思うし、トリプルブロードするチームがあってもいいと思う。これらの戦術が無条件に「いい」という話ではなくて、それぞれのチームにとっての点を獲るための、セットをとるための、試合に勝つための最適解になる場合があるのではないか。