Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

こだわらないこだわり




photo by FIVB


2016OQTが終わった。
考えたくはなかったが、想定していたパターンではあった。
W杯と同じ戦闘能力であれば、突破できる可能性は高かったであろう。しかし、オリンピック予選というのはいつもと同じ力が発揮できるほどそんなに甘い大会ではないと思うし、他国の本気度だって違う。
怖いもの知らずであった若者たちにも失うものができてしまった。ベテランに見えた中堅たちも結局は独り立ちできていなかった。そんな風に見えた大会であった。


中国戦の中盤。完全に停滞したチームに何も打つ手はなかったのだろうか。セッターを替えることはできなかったのか、せめて2枚替えで変化があるのかを試してもよかったのではないか。さしてチームにアクセントを与えられないオポジットとリベロをあそこまで引っ張ってもよかったものか。あそこまでコミットをし続けてよかったのか。
そもそもあのようにゲームが停滞することを想定していた人選だったのか。
すべて結果論ではあるが、私はあの試合を見ていて「こだわり」「拘泥」を感じてしまった。
成功体験へのこだわり、特定選手へのこだわり。そんなこだわりがチームを壊してしまったように私は思う。


今、世界のバレーボールのトレンドは多様性にあると思う。
つまり引き出しの多さと、それらをいかに適切に使うかが問われている。
ヌガペトの選択肢のあるプレーコートにセッターがいないときにすんなりパイプにあげられるクビアク。サーブの使い分け、ブロックシステムの使い分け。


采配でもフランス戦、温存の要素もあっただろうがクレク、クビアクをすんなり下げたアンティガ、ガフールにこだわらなかったロサノ。オポはほぼ併用だった中国。
そういう意味ではフランスは采配の部分で、引き出しの数が少し足りないのが今後も難点になるだろう。


一つのプレー、一人の選手、一つのチームにこだわらないこだわりをトップチームからは感じることができる。



日本は「道」の精神も相まって、ものごとにこだわる、というか一つのものごとを極めるのが美徳と感じる部分はあるのかもしれない。段階的なステップの中で、100点を取らなければ次へ進めないといった経験も学生生活で幾度もした。新卒至上主義なんかもその一つかもしれない。


まぁ、その他、準備期間というか海外とアジャストする時間の短さ、ブロックシステムの問題などは所々の総括記事などで語られているのが、まさにその通りであろう。
高さ、パワーの差で終わらず、そこまで踏み込んだ記事が出てきたことは大きなことだと思う。


今こそドラスティックな変革が求められているのは間違いない。
ここでしっかりと実績のある外国人監督を招聘できなければ、東京に出たとしても予選ラウンド負けで終わるだけであろう。
日本バレーボール協会はこだわりを捨てるべきである。