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バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

きょうのセッターその50 猫田勝敏




「スマン」
「頼む」
「ありがとう」
猫田勝敏ストーリー(2) | JTサンダーズ広島 | JTウェブサイト

日本国内では「セッターと言えば」の代名詞になっているとは思うが、世界的にみても猫田氏の功績は、今でもなお高く評価されている。
イタリアのバレーボール専門webメディアの「VOLLEYBALL.IT」が昨年まとめた『現代バレーボールの歴史を作った12人のセッター』の一人目として、猫田氏は取り上げられている。
バレーボールの歴史に詳しい元オーストラリア代表監督であるマーク・レべデフは、歴史上最高のセッターを5人挙げるとしたら、と尋ねられ、「猫田、ザイツェフ、マウリシオ、グルビッチ、ボール」を挙げている*1。またブラジルのバレーニュースサイト「Saque Viagem」は猫田氏を「現代セッターの父」と位置付けている*2


1964年東京、1968年メキシコシティ、1972年ミュンヘン、1976年モントリオールと計4回のオリンピックに出場し、それぞれ銅、銀、金、4位という結果。当たり前であるが、4回オリンピックに出場した日本のバレー選手は猫田氏しかいない。


1960年代後半はまだ両サイドに高いトスを放り上げておくという戦術が一般的で、クイックはあるにはあったが単発ということがほとんど。ミドルとサイドを絡ませるという発想自体がまだなかった。そもそも一人の固定されたセッターが攻撃をコントロールするというチームがほぼなく、複数セッターによるオフェンスが大勢を占めていた。猫田氏も東京五輪では出町豊氏の補助セッター(控えという意味ではなく)という位置づけであった。その後、ワンセッターとなった猫田氏と仲間たちの作り上げた多種多彩なクイック、時間差攻撃を繰り出すマルチテンポオフェンスはバレーボールに革命を起こした。
もちろんこれは監督であった松平氏の功績に依るところが大きいが、猫田氏の技巧がなければ実行に踏み切らなかっただろう。


国内であまり取り沙汰されることはないが、猫田氏がネットを背にしてセットすることで、リリースポイントが相手から見えづらくなったことを彼の利点に挙げる海外の文献も多い*3*4。これはあくまで推測であるが、ミュンヘン前年の右手複雑骨折の影響で、左手の力を多めに使わざるを得なかったことによる副産物だと考える。オリンピックの約1年前に腕を骨折して復帰は本番の二ヶ月前、それを考えるだけで恐ろしい。


猫田氏の最大の功績はセッターの「心」を世に残したことであると思う。「セッターは目立ってはならない」「人間力」「スパイカーに合わせ、打ちやすいトスを上げる」「自分が思ういいトスではなく、スパイカーが打ちやすいトス」「毎日、毎日の練習で“骨で汗をかいた”と納得できるまでやる」 そして冒頭の引用、猫田氏が試合中の口癖だったという「スマン」「頼む」「ありがとう」はセッターのみならず、自分ひとりだけではプレーすることの出来ないバレーボールというスポーツのエッセンスが詰まったメッセージだと思う。ボールを触るプレーヤーすべてがこの気持ちを持っていれば、自然とプレーの質は上がるはずである。


猫田氏は39歳の若さで早逝したが、10年後、100年後、彼の「心」がバレーボールに生き続けることを願う。



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