Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

あれから4年



「この二人はすぐにでもセットで代表に入れるべきだ」


そう思ったのは2006年世界選手権直前の関東大学1部秋リーグのことだったから、もう4年も前の話だ。その二人がやっとA代表という同じチームで一緒になったのでこのエントリーを書くことにした。
もちろんその二人というのはすでに揃って代表入りしている福澤と清水のことではない。たしかに清水はその翌年代表入りしたわけだが、当時はまだまだ荒削りで、あの冬を越えて本格化したように思う。
その時点なら福沢の方が代表に近いと思っていたが、結果的には清水の方が早く代表の主力に定着した。


閑話休題


入れるべきだと思った二人というのは、当時筑波大の3年だったセッターの菅とリベロの永野だ。意外に思われるだろうか?
その年の筑波はやはり卒業した石島の穴が大きく、上位にはいるものの苦戦が多かった。
しかし、三上(現FC東京)や丸山(現豊田合成)、鈴木(現東レ)など今となってはプレミアリーガーばかりのコートの中でもこの2人は格段に輝いて見えた。
スタメンの7人中には4年生が4人いたわけだが、チームを引っ張っていたのは、3年生だったこのセッターとリベロだったのを覚えている。


菅という選手は目を見張るようなテクニックを持っているわけではない。同世代の北沢(現富士通)があまりにテクニカルだったので、テクニックの面ではどうしても見劣りしていた。
しかし、コート上の全軍を指揮し、攻撃を組み立てるという点では格段に菅の方が能力が高かった。そのトス選択における決断力の懐の大きさも驚いた。その偏りのない決断で1年、2年時のインカレを制した。
1年からレギュラーとして北島、石島や前述の選手たちにトスを上げてきたわけだが、2年の後半あたりからはずっと筑波は菅が軸のチームだった(と個人的には思っている)。そういったひと癖もふた癖もある年上の選手たちを使いこなせた彼なら、すぐにでも代表で使ったほうが良いと思ったわけだ。身長は高くはなかったが、そのブロックは非常に堅かったことも記憶している。


永野は抜群の反射神経と読みで、唸るようなレシーブを連発すると同時に、その練習量に裏づけされているであろう安定感も持っていた。その時の1部には古賀、佐別当、藤森らがいてリベロのレベルは相当高かったと思うのだが、僕の目には永野が頭ひとつ抜けて映っていた。彼は下肢の使い方が非常にうまく、強いボールの勢いを殺すことができたし、簡単なボールをミスすることも少なかった。


彼らの4年時には大エースと呼べる選手もいなくなり、一時は菅と須藤のツーセッターをひくなどチームはずいぶん苦しんだわけだが、Vリーグに行けば、すぐにだってレギュラーに定着し、すぐ全日本にも入るだろうと思っていた。 
インカレの後、永野は内定時にすぐにパナソニックのレギュラーの座をつかみ、その年のVリーグのベストリベロにも輝いた。
さすがに内定でセッターを使うというのも難しい話なので、その年、VリーグではNECに行った菅の出番はなかったわけだが、真剣にその年の5月に控えたOQTにまだ間に合うんじゃないかという思いもあった。しかしそれはかなえられなかった。
その後もふたりともユニバに出たり、ふたりともVのレギュラーに定着したり、と順調にキャリアを積んだわけだが、A代表の座はなかなか遠かった。


新人1年目、Vリーグで見た菅は十分に仕事を果たしていたが、どうも筑波で感じた輝きは感じられなかった。NECというチームの速いバレーが問題なのか、彼自身の問題なのか、また違った問題なのか、それはわからなかった。その年、NECは廃部になり、彼はJTへと移籍した。JTでの彼もどうも煮え切らない、くすぶった様子が目に映った。
永野は昨年のワールドリーグプレーオフで全日本デビューし、アジア選手権の優勝にも貢献したが、その後のグラチャンではメンバーから外れた。
今年もリベロ1番手として、ワールドリーグプレーオフには出場するも世界選手権では1試合の出場にとどまった。


そんな紆余曲折を経て、二人がようやく、このアジア大会代表というA代表のチームで一緒になった。
世界選手権ではないので、たしかに彼らが大学3年生の時に感じた、数年たてばきっと彼らが全日本でも中心になるという僕の思惑からは外れているかも知れない。
でもまだまだ彼らもこれからの選手である。


この二人が2003年長崎インターハイ、記念すべき長崎チーム同士の決勝で戦ったエースとセッターと思うと、それもまた感慨深い。