Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

三橋栄三郎のアウトサイド



今日見ていくのは1988年のワールドトップ4、日本対アルゼンチン。
ソウルでメダルを獲得したアメリカ、ソ連、アルゼンチンを招いた4か国対抗でジャパンカップスペシャルとの呼び名もある。
オリンピックと同じ年の開催となるこの大会だが、今考えればどういう位置づけで臨んでいたのだろう。メダリストとしたら、ご褒美の日本旅行といったところか。

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最近、アップロードされたこの試合をざっと拝見して、引っかかったのは全日本選手のポジション。

熊田選手が川合選手を対角を組んでミドルを、三橋選手がサイドをしている点である。
基本的には熊田選手は強打のサイド、三橋選手は技巧派のミドルとして知られている選手であるし、私もそういう認識であった。
変則なのかと思いきや、そこまで複雑なことはやっておらず疑問が深まる。熊田選手はほぼクイックを打つし、三橋選手はサイドから打つ。


蔭山選手がまだ大学生とはいえ、それを含めればスタメン6人中5人が富士フィルムの選手というほぼ単独チーム。
当時をよく知るわけではないので、リリースされた情報などもあるのかもしれないが、もうちょっと試合をよく見て、その意図を探っていきたい。



この布陣の肝は、フローターサーブのレセプションをすべてのローテで三橋選手、岩島選手の二人で全部さばいてしまう点にある。
ソウルまでは、もちろんこの二人がサーブレシーブの中心ではあったのだが、三橋選手はミドル、岩島選手はライトに入ることがほとんどであったように思う*1。そうなると三橋選手が前衛の時は当然クイックに入らなければならないので、広い範囲は取れないなどローテごとに調整をする必要があっただろう。想像だけど。
主にサーブレシーブをレフト対角が二人でするというのは、もちろんオリジナルはカーチ・キライのアメリカであろう。


やはりアメリカの隆盛を機に、分業化がトレンドな時代だったのだと思う。全員守れて、打てるというよりはめちゃくちゃ守れる選手とめちゃくちゃ打てる選手の組み合わせを日本も志向したのかもしれない。
この三橋、岩島は1987年のビーチバレージャパンでもペアを組んでいたことからも、布石はあったように思われる(ちなみに優勝が川合-熊田だった)。
やはり小山監督は三橋栄三郎にカーチ・キライの姿を重ねたのではないか。そして蔭山にティモンズの姿を見たのかもしれない。




サーブがそこまで強くないとはいえ、ここからライト側に回って少し割れ気味のセットをラインに叩き込む岩島選手ヤバし。



熊田選手と三橋選手が並ぶところでは、ブレイク時にはスイッチしている場面が何回か見られた。
熊田選手オポのほうがええんでないかなぁと思うわけだが、果たしてどうなんだろ。ただ三橋選手をサイドに置く分、やはりハイボールの攻撃力というのは少し落ちる部分があって、そういう面での熊田ミドルだったのかなぁ、と思わなくもない。


この大会を最後に小山監督は退き、翌年ジュニアの監督も務めていた南監督が就任。一気にチームは若返り、中垣内、大浦、荻野が台頭した。そういう意味ではおそらくこの大会が最後のほぼ富士フィルム全日本ということになる。三橋栄三郎の全日本キャリアの終わりはサイドだったのだなぁ、と思うと少し感慨深いものがあった。


ブランがガチのオールタイムベスト7を組んで、そのミドルに入る三橋栄三郎。すごい。
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*1:そういえば、昔の人がいわゆるサーブレシーブするライトの選手をボスマンって言ってたけど、あれはどういう意味なんだろう。ボスマン選手がいたのだろうか。