Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

きょうのセッターその28 ヨセフ・ムシル



Josef Musil 1969.jpg
By Unknown author - [1], Public Domain, Link


www.youtube.com
(白チームの4番)

もうさすがにここまでくると、技術的に現代とは似ても似つかないし、時代背景もよくわからないし、知っている人も少なくともネット上にはいないし、映像の量もほとんどなく、ほんとに上手かったのかもよくわからないので、文献情報がどうしてもベースになってしまうのでご勘弁を。
歴史として、ちょっと抑えといたほうがいいかなというレベルなので、読み飛ばしてもらって構わない。


さて、ザイツェフが尊敬したセッターは猫田であるが、猫田が目指したセッターの一人がムシルといえる。松平氏の著作でもチェコスロバキアのセッター、ムシルとゴリアンの記述は時折現れる。
バレーボールが国際化されて、本当に最初期のセッターである。チェコスロバキアで1952年から5回の世界選手権に出場し、すべての大会でメダルを取った。この世界選手権5個のメダルというのは、今後誰に破られることもないだろう。
ムシルは2001年にFIVBが発表した、20世紀最高の選手を決める最終選考8人にもノミネートされ(他の7人はキライ、ベルナルディ、コンテ、ダルゾット、猫田、レーヴァ、ヴォイトビッチ)、最終的にはキライとベルナルディが20世紀最高の選手と相成ったが、ムシルはチェコスロバキアの選手で唯一バレーボール殿堂にも選ばれている。


猫田氏より前の世代、基本的に多くのチームはツーセッターであった。そもそも1964の東京五輪は猫田氏と出町氏のツーセッター。
ツーセッターと言っても、キューバ女子なんかの6-2ほど洗練されているわけではなく、前衛の選手がセッターをしたり(いわゆるインターナショナル4-2)、ローテーションによっては後衛の選手がしてみたりとかなり柔軟に行っていたようである。なので、どちらかといえば、打てる選手を増やしたいからというわけではなく、ブロックもタッチに数えられていたので、コート内に複数のセッターがいてある程度どこからでも攻撃が展開できたほうがよかったわけだ。
ただ、やはりそういった選手を二人いれるとチームとしての攻撃力が落ちてしまうし、アタッカーとの連携も二度手間になる。といったデメリットを解消するためにワンセッターが普及しだすのが、猫田氏あたり1960年代の後半からとなる。


なので、ムシルの時代はまだツーセッターの時代。動画でもムシルがスパイク打つ場面も。というか、セットしてる場面がほとんどないので、何とか見つけ出したのが、下の動画。
youtu.be





当時、当然プロフェッショナルの選手はいなくて、ムシルはタイポグラファーだったらしい。もちろん海外に移籍するなんてありえない時代にムシルはイタリアのモデナに移籍して、セリエA最多優勝回数を誇るモデナの初めての優勝に貢献するわけだが、チームを興したパニーニって会社(今もホームの体育館にパラ・パニーニとして名を残す)は印刷業だった。おそらくだが、もちろんバレーの腕を買われて来たわけだけど、アマ全盛の時代なので、あくまで職人として雇われたのではなかろうか。
その後のパニーニ・モデナの栄光は調べていただいたらわかるが、そもそもムシルがタイポグラファーじゃなかったら、モデナに来てなかったかもしれないし、そしたら優勝してなかったかもしれないし、そしたら今までモデナというチームが現存してるか、わからないし、そしたらモデナで活躍するクリステンソンなんか見られなかったのかもなー、なんてことを現代のセッターの始祖といっても過言でもないムシルのストーリーを調べて、思ったわけだった。