読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Stay Foolish

バレーボール(主に男子)をいろんな視点から見ていくブログ

名選手即監督、名監督になるか




photo by FIVB
ここへきて、引退した選手がそのまま監督になるという事例がいくつか続いているので、そのことについていくつか思いを馳せてみたい。


まずは一番身近なところではパナソニック川村選手の監督就任。南部監督が全日本に栄転ということで、フロントとしてはここ数年良い結果を残している強化の方向性は変えたくはないという思いが見て取れる。真保コーチもともに全日本に行くということで今のパナソニックのバレーボールを一番理解できている人間というチョイスであろう。南部監督と同じ大商大というのも無関係ではない気もするけどね。
日本でこのケースの前例といえば中垣内氏、荻野氏くらいであろうか。やはりそれらのレジェンド級の選手に比べれば、ネームバリューでの監督就任ではないし、周囲の信頼の厚さからくるものであると思う。


Grbic embarks on new journey at Perugia/FIVB - Media
イタリアからはこないだまでカザンのセッターだったニコラ・グルビッチがペルージャの監督にというニュース。
前監督のコヴァチがイランの監督就任ということで後任が注目されていたが、まさかのレジェンドダイレクト。
やはりセルビア系の選手、監督で成功した昨シーズンを踏まえという結果であろう。チャンピオンズリーグへの出場も決まったし、オーナーの財布もゆるいゆるい。
最初、イタリア語のニュースをぱっと見したときはペルージャに選手でということかと思ったが、引退しての監督就任。来るときが来てしまったなという印象である。まだまだできるとは思うんだけどね。彼のセッティングをもう見ることができないというのは少し悲しい。
イタリアでは選手上がりの監督というのはサルトレッティもジャーニも煮え湯を飲んでいるだけに少し難しいかもしれないと思いつつも、大抵の名監督の下でやっているニコラが失敗するところも思い浮かばないというのが正直なところである。
唯一、同い年のブエビッチの存在が問題かもしれないけど。
これがお兄ちゃんのウラジミール・グルビッチだったら、絶対失敗する!って断言してるんだけど。


そして去年発表されているアンティガのケース。
現役バリバリのアンティガ、ポーランド代表監督になる - Stay Foolish
こちらは代表監督ということで若干話は違うんだけど、やはり周囲からの信頼の厚さというのがさまざまなニュースから見てとれる。
とはいえ、強化期間の短い代表でどれだけ色を出していけるかというのは、やはり新任の監督には少し荷が重いと言わざるを得ない。
とりあえずワールドリーグの結果を注意深くチェックして行きたいと思う。


近年ではミゲル・アンヘル・ファラスカというスペイン人のセッターが引退後すぐにポーランドのベルハトゥフの監督になったのが、このムーブメントの始まりであろう。このファラスカがベルハトゥフの監督になったときは世界中が「うまくいくわけねーだろ」という論調であったが、彼の今年の成功(ポーランドリーグで優勝、CEVカップで3位)には目を見張った。正直、ファラスカがいなければアンティガのポーランド代表の話はなかっただろうと思う。


「名選手、名監督にあらず」という名言があるが、それはあくまで「(監督できなそうな)名選手、(所詮)名監督にあらず」ということにすぎず、やはり名監督になりそうな選手というのは、プレーぶりや選手時のインタビューを見ていれば大体わかるものだ。
いくつかの例外はあるが、やはり選手からそのまま監督になる事例というのは、その選手の信頼がフロントからも、おそらくは選手からも厚いケースであり、やっぱりそういうケースでは大きな失敗ということはないだろう。
やはりイタリアで失敗するケースが多いというのは、サポーターの求めるレベルと新人の監督のできるレベルとに乖離が発生しているからだ、といえないこともない。


そもそも、こういう選手からそのまま監督という事例が増えているのは、なんというか強いチーム、バレーボールのスタイルというのが、ネットの発達などによって全世界的な暗黙知と化している部分があるのかもしれない。つまり監督の専門性の価値が知識、経験という部分では低下しているのではないかという仮説を持つことができる。まあ基本的な素養というのは必要なのだろうけど、人間性があればなんとかなる時代になってきているのかもしれない。
と考えると、二十年、三十年先には監督という職業はもしかしたらなくなってしまうのかもしれない。とふと思ってみたりする。


ただやはりこういうケースは選手としては余力を残して、という場合が多いので監督になる彼らのプレーをもう少し見ていたかったという思いが残るのみである。